マスコミが作り出すオッズの魔力
競馬において、それぞれの馬が勝つ確率をあらかじめ求めることは不可能である。なぜなら、勝負の行方にはさまざまな要素があり、いくら血統や競走実績、馬場状態などのデータがあっても、それぞれの馬が勝つ(あるいは馬券に絡む)確率を数値で正確に求めるのは不可能だからである。近似値すら求められない。馬が2頭いたら勝つ確率の高い馬の方の馬が配当が高くなっているかもしれないからである。確かなのは「その馬が勝つ確率を全ての馬について合計すると百パーセントになる」ということだけである。
しかし、競馬にはオッズという数値化された配当が存在する。ギャンブルなのだから配当が明示されていなければならないのは至極当然である。カジノ系等のギャンブルでは、それぞれの目のオッズはその目が出る確率に反比例して定められている。例えばルーレットの配当を考えると分かりやすいだろう。種目によっては高配当側のオッズをその確率に対して安めに設定している場合があるので正確に「反比例」ではないのだが、とにかくその目が出る確率が予め分かっていて、その値が小さくなればなるほど配当が高くなるしくみとなっているのである。
ところが競馬の場合、それぞれの馬が勝つ(もしくは馬券圏内の着順となる)確率を近似値すら求めることが不可能なのにもかかわらず、オッズが存在する。オッズはどのようにして決められていくのだろうか?日本の競馬の配当はパリミュチュエル方式である。つまり、各買い目の馬券の売上に反比例して配当額が決まるしくみである。売上の多い目の配当は安く、売れていない目ほど配当が高くなる。その目で決まる確率とその目の売上が比例しているのならば「確率論から導き出されたオッズ」であると言えるのだが、実際はその様なことは無い。競馬というギャンブルにおけるオッズはプレイヤーである馬券を買う競馬ファンの様々な思惑から決まっていくのである。つまり全ての競馬ファンの様々なの思惑が絡み合って、総合的な数値として配当があるのである。ファンが馬券を買うときの要素は何なのだろうか?その馬の過去の実績などを分析したりすることもあるが、競馬マスコミによるところも大きい。ある馬について新聞で◎がいっぱい付いているとか、スポーツ紙の一面で「状態万全」みたいなことが書かれてあれば、その馬を買う人が増えて配当は安くなる。このように配当を作り出すには、それが全てではないもののマスコミが大きな力となっている。
競馬マスコミのオッズに与える影響を示す代表的な例はオグリキャップのラストラン。天皇賞・秋で敗れた後にJCで惨敗し、各スポーツ紙は「オグリ燃え尽きた」等の限界説を報道した。そして、引退レースの有馬記念では4番人気と、この馬にしては低い評価。しかし、その評価を覆して感動的なラストランを飾ったのは周知の通りである。もし、マスコミが「オグリ万全の仕上げ」「有終の美を飾るぞ」等ということを中心に書いていれば、おそらく1番人気になったと思われる。
もう一つの例がハルウララだろう。初めは地元の高知新聞がちょっとした話題にしたのだが、連敗を続けても出走し続けれる彼女の勇姿に他のマスコミも注目しはじめ一躍全国区に。そのブームの頂点だったのが、2004年黒船賞の日に行なわれたレース。日本のトップジョッキー武豊が騎乗ということで、マスコミも大々的に話題にし、大いに盛り上がった。武豊本人はウェブ日記で「僕はハルウララに乗りに行くのではなく、黒船賞のノボトゥルーに乗りに行くのだからノボトゥルーをちゃんと見て欲しい」とのメッセージをファンに発したが、ハルウララフィーバーは止まることがなかった。私はその日川崎競馬場の場外発売に入ったのだが、ハルウララの単勝馬券専用窓口までできていた。そしてそこにはハルウララの馬券を求めて多くの人が並んでいた。おそらく全国の馬券売場がこのような状態だったと思われる。ハルウララの単勝は超過剰人気となっていたため、私はハルウララ以外の馬の単勝で勝負した。そしてハルウララは道中もついていけずにブービー。勝ったのは2番人気のフアストバウンス。単勝配当は4倍だった。実質1番人気になるべき馬が勝ったようなものであり、本来なら2倍前後しかつかない筈のオッズが4倍だったのでおいしい馬券だった。他の馬が勝ってくれたほうがもっと儲かったのだが・・・ 。
このように競馬マスコミの報道によりオッズは動く。マスコミは話題性を重視の報道をしており、それはそれで純粋なスポーツや単なる話題として観ると楽しいのだが、馬券を買う上ではその裏を掻いてみることも重要である。オッズを作り出す大きな要因なのだから。