競馬をただ「観る」だけだった私が、初めて日高の牧場を訪れ「馬を感じる」ようになったのは2001年の夏だった。競馬ファン歴はそこそこ長かったが、馬産地を訪れるのはこれが初めてだった。あの頃はまだ、日高本線が様似まで運行されていて、静内駅も多くの旅人を迎えていた。その年の夏休み、私は競馬好きな友人と二人でJR北海道の鉄道が乗り放題となる「北海道フリーきっぷ」を使って旅をしていた。当時はまだ夜行列車が結構残っていた。宿泊は夜行列車の中。寝ている間に次の目的地に着いていて、宿泊費もかからず、フリーきっぷを使っているので旅程の割にはお金がかからない。当時はまだそんな旅ができた時代であった。
その旅行の道中、われわれは日高へ牧場見学に行くことにした。といっても前もってプランなどは立てていない。競馬場などで売っている「北海道牧場マップ」などを持っていればよいのだが、そのようなものは持ち合わせていなかった。どこにどんな馬が繋養されているか、その牧場の見学可能時間はいつか、事前連絡は必要か、などを調べるために「競走馬のふるさと案内所」に行けばいいと思い、案内所がある静内へ向かうこととした。時刻表で調べたところ静内には駅レンタカーもあるらしいので、気が向けばレンタカーを借りればよいだろう。天気がよければレンタサイクルで回るのも面白そうだ。釧路から札幌への夜行列車の中で目を覚ましたわれわれは、苫小牧まで行って電車を乗り換え、日高本線のワンマンカーに乗った。左に日高山脈、右には海ののどかなローカル鉄道。終着駅はえりも町の様似駅だが、その途中にある静内駅で下車した。
静内駅で列車を降りたら、駅の出口は観光案内所だった。駅に置いてあった観光パンフレットを読んでいると観光案内所のおばちゃんが観光周遊バス「しずないロマンロード号」を紹介してくれた。静内&新冠にあるスタリオン(種牡馬を繋養している牧場)を回る周遊バスだそうである。料金は一日三千円。牧場によっては(このバス以外は)入れてくれないところもあるそうで、そうでなくてもどの牧場がどの時間に見学させてもらえるのかがわからないので、この観光バスに乗ることとした。
というわけでバスに乗り込んだ。先ほどまで観光案内所にいたおばちゃんが、バスガイドをしていた。観光案内所のおばちゃんがそのままバスガイドを兼ねるという、手作り感のあるバスツアーだ。乗客はわれわれ二人を入れて四人しかいない。しかも、そのうち一人は午前中だけで帰った。もし私たち二人が駅で思い立ってこのバスに乗らなければ、乗客はたった二人で、午後は一人で貸し切り状態だったということだ。
しずないロマンロード号の最初の目的地はアロースタッドだった。当時、四十億円馬ラムタラが注目を集めていたが、私のお目当ては現役時代好きだったロイヤルタッチだ。ロイヤルタッチを見て写真を撮り、タマモクロスの写真を撮ろうとしたところ、デジカメの電池が切れた。予備の電池がなくどうしようかと思ったが、同行の友人が電池を貸してくれた。そんな些細な出来事が、今でも鮮やかに記憶に残っている。
アロースタッドではロイヤルタッチのほか、エアダブリン、メジロライアン、アンバーシャダイなど、私の競馬観戦歴に深く関わる種牡馬たちの姿を見ることができた。写真を撮るのに夢中になり、気がつけば随分と時間が経っていた。
続いて訪れた静内スタリオンステーションでは、私の最愛の馬ウイニングチケットと対面した。ウイニングチケットは初めて見たダービーの勝ち馬でもあり、またそのレースは体が震えるほど感動した。彼と会うのは結果的に引退レースとなった1994年の秋の天皇賞以来だったが、柵の向こうからこちらを見つめる姿に、時間の流れを感じた。なお、この十二年後に東京競馬場のパドックでお披露目があり、そこで私はウイニングチケットと再会している。その他の馬では、サクラローレル、サクラチトセオー、サクラチヨノオー…サクラの馬を中心にしたかつての名馬たちが、ここで穏やかな時間を過ごしていた。
午後になると、バスは競馬とは関係のない観光地へも立ち寄った。アイヌの英雄シャクシャインを記念した記念館や、新冠のレ・コード館。それまで静内といえば馬産地というイメージしかなかったが、馬以外の静内の魅力も知ることができた。なお、レコードとはレースタイムの記録のことではなく、音楽を記録しておくためのレコードである。CDが登場する前、音楽といえばレコードだった時代、この地はレコードの生産地として栄えたらしい。
新冠町にはサラブレッド銀座という通りがある。文字通りサラブレッドの牧場が連なる通りだ。このバスで立ち寄るところは(牧場は)種牡馬を繋養しているスタリオンばかりだが、途中、サラブレッド銀座の駐車公園で小休止したため繁殖牝馬がいて仔馬がいるような生産牧場の風景もゆっくり見ることができた。往年の名馬が種牡馬として活躍しているスタリオンもよいが、母馬が仔馬と戯れるのどかな牧場風景もよい。
優駿スタリオンではオグリキャップに出会った。繋養されていたのはわずか三頭だったが、見学者の数は他のスタリオンよりもずっと多かった。やはりオグリキャップは競馬ファンにとって特別な存在なのだと実感した。現役時代、まだ競馬に興味を持つ前だった私が知っているぐらいのスーパーホースだったぐらいだから。
CBスタッドでは、ブライアンズタイム、マーベラスサンデー、シルクジャスティスなど、私が当時出資していたクラブ馬の父たちに会うことができた。ここにはナリタブライアン記念館も併設されていたが、入場はしなかった。それでもグッズショップを覗いたり、他の見学者と話したりして、有意義な時間を過ごした。ナリタブライアンが生前繋養されていた馬房は急逝から三年経ったこの頃でも空けてあり、ファンの方から届いたお花などの供物が置かれていた。
あれから二十年以上が過ぎた。残念なことに日高本線の鵡川以南は2015年に起きた土砂災害の影響で廃線となり、静内駅には列車の姿がなくなった。「しずないロマンロード号」は今も健在だが、運賃が七千円に値上がりし、コースは馬産地らしい施設に特化されたものへと変化している。今では馬と関係ない観光地はコースに含まれなくなっているようだが、私がロマンロード号で旅した時はオープンに向けて準備中だった乗馬施設ライディングヒルズ静内で乗馬体験もできるようだ。
だが、私にとっての「しずないロマンロード号」は、あの夏のまま、少しガタつくシートに揺られて走っている。初めて見る馬産地の光景や名馬たちの姿に胸を高鳴らせ、バスガイドさんのユーモラスな語りに笑い、空の色を見上げながら「来てよかったな」と思った、あの日のまま。
私は一口馬主としてその後も何頭もの競走馬に出資しているが、その中にはこの日高の生産馬も多い。そのうちの何頭かは、引退後、日高に戻っていったと聞く。今もどこかで、見学者の目を楽しませてくれているのかもしれない。
あの夏、乗客がたった四人だったしずないロマンロード号は、今や多くのお客さんを乗せて牧場地帯を巡っている。2023年は九日間の運行で百十二人の利用があったそうである。あの時は「たった四人の乗客でこのバスは採算が取れるのだろうか?」と心配になったし、その後災害により日高本線の「日高」の部分を走っている区間が廃線となった。今では静内は鉄道では行けない場所となっている。しかし、今では道内からも道外からも多くの競馬ファンを乗せて、ロマンロード号が走っているようである。次に日高を訪れるときも、あのバスは変わらぬ使命を胸に、競走馬のふるさとを走っているに違いない。
あのバスに乗って見た牧場の風景、馬たちのまなざし、ガイドさんのあたたかい声。そのすべてが、私の競馬人生において、かけがえのない「出発点」だったことを忘れることはない。
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